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東大寺観光のために知るべき東大寺の歴史を簡単にわかりやすくご紹介

奈良の大仏 未分類

新婚旅行三日目の二番目の訪問場所は、大仏で有名な奈良の東大寺でした。
当時は東大寺の歴史をほとんど知らずに観光したので、よくわからないことも多々あり、
東大寺の歴史を少しでも調べてから見学すれば良かったと後悔しましたので、東大寺観光に必要と思われる東大寺の歴史を簡単にわかりやすくご紹介します。

東大寺の歴史

東大寺は、奈良県奈良市雑司町(ぞうしちょう)406-1にあり、世界遺産にも登録され、
奈良県だけではなく日本を代表するお寺のひとつです。
「奈良の大仏さま」が有名で、大仏さまを拝(おが)むために、昔も今もたくさんの
人々が訪れる観光地でもあります。

奈良時代の東大寺

神亀(じんき)5年(728年)
聖武天皇(しょうむてんのう)
は幼くして亡くなった皇子を弔うため、若草山に
金鍾山寺(きんしょうさんじ)という寺院を建てました。
これが東大寺の始まりだとのこと。

その後、災害や政変・反乱、飢饉・伝染病などによって社会不安が続いたため、

天平(てんぴょう)13年(741年)
聖武天皇は仏教の力によって国家の安定を図るために全国60余箇所に国分寺・国分尼寺
を建てさせました。
国分寺は四天王を守る寺、国分尼寺は法華経(ほけきょう)を絶えず読経する寺です。

その時、金鍾山寺は大和国分寺として「大和金光明寺(やまときんこうみょうじ)」と改称され、東大寺の直接の前身となり、都が平城京にもどると、新たに東大寺が建てられ大仏が作られます。

諸国の国分寺の総本山として東大寺を建て大仏を作成すること進言したのは、当時天皇や貴族に華厳経(けごんきょう)を説いていた良弁僧正(ろうべん・そうじょう)でした。
そして良弁が現在奈良の大仏と言われている「盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)」を本尊とし、開山(初代別当)しました。
それで現在東大寺は華厳経の寺になったのですね。

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この大きな仏を造るという一大事業は、聖武天皇や国家の力だけでは完成できないため、
聖武天皇から直々に依頼されて743年に大仏像造営の勧進(責任者)として起用された
行基上人(ぎょうき・しょうにん)が全国をまわって大仏造立の意味を説き、物資や人手を集めたとされています。

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東大寺は大和(やまと)国の国分寺として多くの人の信仰を集め、また全国の国分寺
の総まとめとして「総国分寺」の役割も与えられました。

天平勝宝(てんぽうしょうほう)4年(752年)大仏開眼供養
東大寺の本尊として世界最大の金銅仏(銅で鋳造し金メッキをした仏像)である
盧舎那仏(るしゃなぶつ)も完成し、大仏開眼供養が盛大に行われました。
これは現在「奈良の大仏」として有名です。

天平勝宝5年(753年)鑑真(がんじん)来日
大仏開眼供養が行われた翌年、唐(現在の中国)の僧侶である鑑真(がんじん)
何度も日本渡航に失敗して失明までしても、ついに6回目に薩摩国に到着しました。

聖武天皇に招かれた鑑真は、お坊さんとして認めるための「戒律」を授ける施設である
「戒壇院」(かいだんいん)
を建てるなど、仏教を指導する仕事をしました。
そのため、東大寺境内の整備が充実するにつれ、東大寺は仏教研究の拠点としても繁栄し、「南都七大寺」の中心的存在として発展しました。

注)「南都七大寺」とは:南都(現在の奈良市)で朝廷の保護を受けた7つの寺のこと
1.東大寺 2.元興寺(がんこうじ) 3.興福寺 4.西大寺 5.薬師寺 6.大安寺 7.法隆寺の7つの寺です。

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東大寺の名前の由来
人々からは平城京の東にある寺という意味で「東之大寺(ひんがしのおおでら)」と呼ばれるようになり、現在の「東大寺」という名称になったそうです。

なお、東大寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺
(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)です。

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平安時代の東大寺

東大寺は現在は仏教の1つの宗派である華厳宗(けごんしゅう)の寺とされていますが、
奈良時代には(華厳・法相・律・三論・成実・倶舎)の6つの宗派を学ぶ寺で、平安時代に空海の真言(しんごん)最澄(さいちょう)の天台が加わり8宗派を学ぶ寺院となりました。仏教大学のようですね。

明治以降は一つの寺には一つの宗派というきまりができて、聖武天皇が一番好きだった
華厳宗(けごんしゅう)を選んだそうです。

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都が京都に移転したこともあり、奈良に存在した巨大なお寺のうちの多数が、奈良時代以降は衰退してしまい、江戸時代頃までには当初の規模とは比べものにならないほど荒廃していったのですが、自前で荘園などを持っていた東大寺は比較的その規模を維持することができました。しかし、

治承4年(1181年)「南都焼討」(なんとやきうち)
平氏政権と東大寺をはじめとする寺院勢力が対立した結果、平清盛の命を受けた
平重衡(たいらのしげひら)ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の
仏教寺院を焼討にした事件で、東大寺の大仏なども焼失してしまいました。

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鎌倉時代の東大寺

南都焼討後、東大寺の再建を説いた重源上人(ちょうげん・しょうにん)の報告を聞いた
後白河上皇は、重源を大勧進に任命し、東大寺の再建に取りかかりました。
重源上人は精力的に全国を勧進にまわり、源頼朝の協力も得て大仏や諸堂を再建しました。

注):大勧進(だいかんじん)とは寺院建立などのために寄付集めなどに従事する僧の職
勧進(かんじん)とは人々に仏の道を説いて勧め、善導すること
上人(しょうにん)とは智徳を備えた僧への敬称

このときに再建された大仏殿や南大門などは、重源が中国の宋から取り入れた独特な
建築方法で大仏様(だいぶつよう)と呼ばれています。
だいぶつさまと混同しそうですね。

太い木材を使い、水平に木材を付ける耐震構造、天井を張らずに木材をそのまま装飾とすることなどが特徴で、簡素な構造美を尊重する様式です。
大地震で大仏の首が落ちたこともあり、また資材を節約するためにも取り入れた方法だったのでしょう。

源頼朝は資金や物資の調達だけでなく、大仏殿安置の巨像群の造立を御家人に分担させるなどしてこの大事業を支えました。

源頼朝は意外に立派な人物だったのですね。平清盛とは大違いです。

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建仁3年(1203年)東大寺総供養
ようやく東大寺の再建事業が完成し、この年、後白河上皇や源頼朝が列席のもと
東大寺総供養が行われました。

供養とはどういう意味なのか、今回改めて調べてみました。

すると、供養は「供給資養(きょうきゅうしよう、くきゅうしよう)」という言葉を略したもので、供給は物をそなえること、資養は資質(心)を養うことだそうです。
つまり神仏に食事や花を捧げて謝意や敬意を伝える儀式のこと。
また「亡くなった故人や先祖の霊を供物でもてなし弔う」ことという意味のようです。

したがって、東大寺総供養とは燃えて亡くなってしまった大仏などすべての霊を供物でもてなし弔って、東大寺の再建を祝ったということでしょうか。

この再建事業と平行して、奈良の仏師の代表である運慶快慶(うんけい・かいけい)
らの活躍により、東大寺では多くの新しい仏像が造られました。
東大寺南大門金剛力士像など、新たな時代を代表する仏教彫刻が、東大寺再建をきっかけ
として生まれたのです。

 

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戦国時代から江戸時代の東大寺

東大寺は、平安時代、鎌倉時代、戦国時代を通じて、戦災・火災・地震などにより、何度も焼失しており、現存する建造物の多くは江戸時代に公慶上人(こうけい・しょうにん)によって修復されたもので、創建当時のものは、ごく一部しか残っていないとのことです。

日本における戦国時代は、「応仁の乱(1467年)が始まってから大坂夏の陣(1615年)が終わるまでの約150年間」と言われていますが、
それほど長かったとは今更ながら驚きです。
そんな時代に生きた人々の苦労はどうだったのでしょう。

永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦い (安土・ 桃山時代)
永禄8年(1565年)河内国の戦国大名であった三好家が13代将軍足利義輝(よしてる)
暗殺しました(永禄の変)。
政治の実権を握っていた三好家は足利義輝が将軍親政(将軍自らが政治を行うこと)を復活
させようとしたことに危機感を持ったためと言われています。

永禄の変後、三好政権の中心にいた三好三人衆と三好家の重臣であった松永久秀(まつながひさひで)が政権の主導権を巡って対立します。
そこへ、三好家の後継者となった三好芳継(よしつぐ16歳)が松永久秀に寝返ったことが引き金になり、三好三人衆は大和へ入国、賛同者の筒井順慶(つついじゅんけい)軍と連合して奈良周辺に出陣します。

三好三人衆・筒井連合軍が奈良に駐屯してから約6ヵ月、兵力は三好三人衆・筒井連合軍の方が上であったけれど、松永・三好義継連合軍も松永久秀の多聞山城(たもんやまじょう・現在の奈良市法蓮町)を背後に奮闘していて決着がつきませんでした。

そんな中、永禄10年10月10日、松永連合軍が東大寺の大仏殿に陣を構えていた三好三人衆連合軍に夜討ちを仕掛け、その結果大仏殿をはじめとする多くの建造物が焼失し、大仏も原型を留めないほど壊れてしまいました。

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翌年の永禄11年(1568年)には、山田道安(やまだどうあん・山辺郡山田城城主)が中心となり、大仏および大仏殿の修理が試みられましたが、戦国の争乱で十分な資金が集まりませんでした。織田信長や徳川家康なども勧進許可を出しましたが、それから約120年間、大仏は江戸時代になっても木造銅版張りの仮の頭部を乗せた状態で、
雨ざらしのままだったそうです。

貞享(じょうきょう)元年(1684年)公慶(こうけい)勧進開始(江戸時代)
公慶は大仏修理のために「出開帳」(でがいちょう)方式の勧進を始めて、
東大寺の復興事業が本格的に開始されました。

出開帳方式の勧進とは、秘仏を他の土地に移して拝観させることで、公慶は江戸上方などの都市部で大仏縁起の講談と宝物の拝観を行うことで、民衆の信仰心をつかみ、多額の寄付金を集めて大仏修理の費用をまかなうことができたのです。

その翌年には大仏修復事始の儀式が営まれ、東大寺勧進所(龍松院・りゅうしょういん)が建てられました。

貞享3年(1686)大仏の修理開始
大仏復興への気運が地元・奈良の町でも盛り上がり、修理開始のわずか5年後の元禄4年(1691年)には大仏の修理が完了、その翌年には大仏開眼供養が盛大に行われました。

次に大仏殿の再建にも、公慶による勧進が続けられましたが、大仏再建よりさらに多額の
費用がかかりますので、元禄6(1693年)年、公慶が将軍徳川綱吉とその母桂昌院(けいしょういん)におめにかかったことで、
東大寺復興は江戸幕府主導の国家的大事業となりました。
しかし、それでも資金が足りず、大仏殿の規模は鎌倉時代の約三分の二に縮小されて、現在の規模になったということです。

幕府による再建工事の期間は元禄7年(1694年)から宝永5年(1708年)までの14年の年月をかけ、大仏修理、大仏殿再建、さらに他の焼失した建造物に関しても再建が行われました。

公慶が宝永2年(1705年)に亡くなった後、弟子たちが勧進を引き継いで、東大寺の復興事業が完了したのは、公慶が復興を志してから約70年後のことだったそうです。
公慶は実に東大寺復興に人生をかけたのですね。

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重源や公慶による東大寺再建の勧進は、歌舞伎などの芸能にも取り入れられていて、
歌舞伎の「勧進帳」(1702年初演)は、平泉に逃れる源義経と弁慶が、東大寺の再建を勧進する旅の僧として関所を通過しようとする物語だったのです。
勧進帳とは、お寺に寄付を募(つの)るお願いが書いてある巻物なんですね。

江戸時代の東大寺復興事業により、奈良は大仏を訪れる人々でにぎわい、観光地として繁栄するようにもなりました。

明治・大正時代の東大寺

江戸時代後期から明治時代になると、大仏殿は老朽化が進み倒れないのが不思議なほどだったそうです。そんな時、

明治元年(1868年)3月神仏分離令が出される
明治政府は仏教と神道を区別して神道を重んずる方針を示したのです。

その理由はよくわかりませんが、当時盛んになった王政復古を唱える平田篤胤(ひらたあつたね)らの国学の影響により、天皇を中心とする中央集権国家を作って速く西洋諸国に追いつくため、また当時金儲けに走る仏教側への不満があったためとも言われています。

これにより、仏教に関わるもの事を破壊し、お釈迦様の教えを捨て去る廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のうねりが生じ貴重な文化財である仏像や経典が失われ、寺院の建物自体まで破壊され、全国の寺院の半数が消えたそうです。

そんな廃仏毀釈が吹き荒れる中、日本の仏教文化を保護するために尽力した人々がいます。

島地黙雷・フェノロサ・岡倉天心

島地黙雷(しまじ・もくらい)は浄土真宗本願寺派の僧侶で、神仏分離・廃仏毀釈のために下落した日本仏教界の立て直しを図りました。
神仏分離によって国家神道を進めようとした明治政府の試みは、伝導の経験が少い神道界による布教がうまくいかないことでわずか5年で断念します。

それに対して、岩倉使節団に従事した経験もある島地黙雷は仏教界を代表して、政府の宗教政策に申し立て、日本の宗教の在り方を正した人物です。

アーネスト・フェノロサと岡倉天心
アーネスト・フェノロサはアメリカのハーバード大学で政治学等を学んだ後来日し、日本美術を研究し、弟子の岡倉天心とともに日本の文化材の保護を訴えました。
後に日本の美術界の興隆の礎として東京藝術大学の前身となる大学も設立します。

明治30年(1897年)「古社寺保存法が制定」
島地黙雷・フェノロサ・岡倉天心らの尽力により、文化財保護のための最初の法律である
「古社寺保存法が制定」され、貴重な仏像の保存や修復を国が行うことになりました。
このような新制度の下で、日清・日露戦争による資金不足に苦しみながらも明治42年(1909年)~大正2年(1913)で東大寺の明治の大修理が完了しました。

昭和時代以降の東大寺

昭和25年(1950年)5月文化財保護法制定
昭和24年(1949年)の法隆寺金堂の火災で、法隆寺金堂壁画が焼損したことをきっかけに
従来の様々な日本の文化財を保護する法律を統一して、文化財保護法が制定されました。
この法律は、日本の有形・無形の文化財の保存・活用と、国民の文化的向上を目的に定められたものです。

太平洋戦争でも空襲を免れた奈良県は、この文化財保護法によって、日本で最も国宝の多い県となり、昭和の大修理が行われました。

昭和49年(1974年)~昭和55年(1980年)東大寺の「昭和の大修理
良弁(ろうべん)
の没後1200年を記念し東大寺の「昭和の大修理」が行われました。
これは、明治の大修理の時に軽量化のために瓦(かわら)の数を減らしたための雨漏りで、柱や構造材がくさってしまったからです。

昭和の大修理では、大仏殿の屋根瓦を軽い物に交換し、明治の大修理で減らした屋根瓦の数を以前の数に戻し、広げた瓦の間隔も充分に重なるようにしました。
屋根裏に防火設備も設置したそうです。総費用は数十億円かかったとか。

平成10年(1998年)12月東大寺が世界文化遺産に登録
東大寺は「古都奈良の文化財8つの資産(東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城宮跡)の一つとして、ユネスコより世界文化遺産に登録されました。

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平成23年(2011年)東大寺ミュージアム開設

東大寺ミュージアムは、粘土製の仏像など、破損の恐れのある国宝や重要文化財を火災や地震などの災害から守る目的で建てられたそうで、耐震構造、防火設備、空調コントロールなど最新の設備が整った建物なのです。

ミュージアムの他、収蔵庫や図書館もあり、東大寺がこれまで歩んできた歴史と触れ合うこともできるそうです。
私たちが訪れたのは昭和時代ですから、このミュージアムは存在していませんでした。
近いうちに孫たちと一緒に訪れようと思います。

東大寺は多くの災害に見舞われたにもかかわらず、歴史的価値の高い建造物・美術品が多くあり、境内の建造物のうち、9棟は「国宝」に指定されており、14件24体の国宝仏、その他絵画や書籍など9件の国宝があります。
絶対に価値のあるお寺だと思われ、世界各国から多くの観光客が訪れています。

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まとめ

東大寺観光を有意義にするために、知っておくべき東大寺の歴史を、年代順に簡単にわかりやすくご紹介しました。

奈良時代の東大寺
聖武天皇が亡くなった皇子を弔うために建てた金鍾山寺(きんしょうさんじ)が東大寺の
始まりとなり、全国に国分寺・国分尼寺を建てた時、金鍾山寺を大和の国分寺として金光明寺(きんこうみょうじ)と改名し、その後大仏が建立され、東大寺となりました。

平安時代の東大寺
東大寺は8宗派を学ぶ寺院となりましたが、平氏政権と寺院勢力の対立の結果、
平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討(なんとやきうち)で東大寺も被害をうけ、大仏などが焼失しました。

鎌倉時代の東大寺
南都焼討後、東大寺の再建を説いた重源上人(ちょうげん・しょうにん)により、後白河上皇や源頼朝の協力も得て東大寺の再建事業が完成しました。

戦国時代から江戸時代の東大寺
戦国大名三好家の政権争いが東大寺大仏殿で行われたため、大仏殿や多くの建造物が焼失し大仏も原型をとどめないほど壊れてしまい、それから約120年間大仏はあまざらしのままでした。
江戸時代になってようやく公慶(こうけい)が勧進を開始して大仏だけの再建が完了。その後東大寺復興は江戸幕府の国家事業となり、この時のものが現在につながっています。

明治・大正時代の東大寺
神仏分離令による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のうねりが生じ、仏像や経典が失われ、多くの寺院の建物自体まで破壊されましたが、仏教文化を保護するために尽力した人々により東大寺の明治の大修理が完了しました。

昭和時代以降の東大寺
文化財保護法の制定により東大寺の昭和の大修理が行われ、平成10年には東大寺が世界文化遺産に登録され、近年には東大寺ミュージアムも開設されて多くの観光客でにぎわっています。
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